dlitの殴り書き

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「ないべき」の話についてちょっとだけ補足(+否定に関する読書案内第2弾)

 ほとぼりが冷めたようなので(?)、少し補足を書いておく。
 現象自体は下記のツイートにまとまっているので、リプライ等も参考にして下さい。



あと、丁寧に説明するとたいへん長くなるので専門用語とかそのままで端的に書きます。
 もともとこの話は某所で文法現象としての否定に関する理論言語学的なイントロをやった時の一部で、「作用域 (scope)」を慣れてない人向けに紹介するには、身近な例がいろいろあった方がいいだろうと思って出したもの。
 統語構造と意味のずれを体感するために、下記の例文の解釈がどうなるかということを考える。

(1) パンを食べるべきではない。
解釈a. must > ¬: 「パンを食べない」でいるべき
解釈b. *¬ > must: パンを食べなければならないということはない (=パンを食べなくてもよい)

生成統語論の(おそらく)一般的な仮定の下では、日本語の複合述部の要素間では、基本的に外側(右側)にある要素ほど統語的に高い位置にあり広い作用域を取ると予測される。つまり、予測されるのは解釈bなのだが、実際には解釈aしか得られない(少なくともずっと優位である)。
 生成統語論ではこのような「ずれ」を解決するために、「移動 (movement)」という分析をよく用いる。統語構造と意味の対応にずれがない次のような例の容認度が低いことも関係しているかも…というところで問題の例文の登場。

(2) ??パンを食べないべきだ。

たとえば「ない」は「べき」の節内にはそのままでは現れられないけど、「べき」より高い位置に「移動」したパターンなら可能で、そのために表面的な要素の位置と解釈の対応にずれができるという分析が考えられる(ざっくり言うと、「べきでない」という形式が「ないべき」のパターンで表されるはずの意味をカバーしている)。ちなみにこれに近い話として否定上昇 (neg-raising)と呼ばれる現象・分析がある。
 ここで、実は(2)を完全に容認する話者もいるという話をおまけ的に入れたわけ。
 さらにこの後、実は節内に「ない」が生起できる「はず」も「べき」と同じような解釈のパターンになるので、どうも(2)がダメなことはこのような「ずれ」の話とはちょっと独立していそう、というややこしい話にしちゃったけれども。

(3) 太郎が走るはずがない。
解釈a. must > ¬: 「走らない」ということが必然である。
解釈b. *¬ > must: 「必ず走る」ということはない(=走らないかもしれない)
(4) 太郎は走らないはずだ。

 ちなみに義務の否定が否定命題の許可になったり、必然(性)の否定が否定命題の可能(性)になったりするのは様相論理・様相意味論を勉強すると出てくる話なんだけれどもここでは割愛。英語だと“not have to”が否定命題の許可になるのが直観的に分かりやすいかな。
 ツイッターでも書いたけれども、今の私自身の(2)に対する容認度は?1つといったところ。ただ研究ノートの最初の内省判断は?2つになっていたので、それをここでは採用している。
 あと、形容詞のイ形が「べき」内に生起するパターン(「賢いべきだ」)は、どうも反応を見ていると「ないべき」を容認する話者よりけっこう少ない感じ。確かに、私自身も形容詞イ形+「べき」の容認度は今でもかなり悪い。授業で口頭で聞くという調査とも呼べない雑なやり方で調べた結果しか手元にないので、議論するためにはもっとちゃんとデータを取る必要がある。ツイッターでも関連する論文が出るという話が出ていたし。

否定に関する読書案内

 この話をした時の資料につけた読書案内をせっかくなのでここにも載せておく。私の話す内容を踏まえた端的な解説になっているのでわかりにくいかもしれないが、大幅に書き直すのは面倒なのでご容赦いただきたい。また、いただいた話の条件を考慮して日本語で読めるものを中心にしている。

否定と言語理論

否定と言語理論

A. 加藤泰彦・吉村あき子・今仁生美(編) (2010)『否定と言語理論』開拓社.
論文集。かなり新しい研究成果も取り入れた論文が多く、また意味論や語用論、通時的研究などもカバーしているため、理論研究を中心に否定に関するトピックや研究史をまとめて見るのに大変便利。ただし、理論的側面については慣れていない人向けに丁寧に書かれているものは少なく、大変かもしれない。
時・否定と取り立て (日本語の文法)

時・否定と取り立て (日本語の文法)

B. 工藤真由美 (2000)「否定の表現」仁田義雄・益岡隆志(編)『日本語の文法 2 時・否定ととりたて』, 93-150, 岩波書店.
日本語の否定および関連諸現象について、具体例を多く提示し問題点や現象の整理を行っている。日本語の否定について概観する、特に現象の確認、関連する表現を探すのに重宝する。ちなみに一緒に収録されている、金水氏が書いている「時(テンス・アスペクト)」、沼田氏が書いている「とりたて」の方も良い概説だと思う。
極性と作用域 (英語学モノグラフシリーズ)

極性と作用域 (英語学モノグラフシリーズ)

  • 作者: 奥野忠徳,小川芳樹,原口庄輔,中村捷,中島平三,河上誓作
  • 出版社/メーカー: 研究社
  • 発売日: 2002/07
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人
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C. 奥野忠徳・小川芳樹 (2002)『極性と作用域』研究社.
英語学モノグラフシリーズで英語の現象が中心だが、極性(特に否定極性項目)と作用域に関する基本的な事項について日本語で読むことができる。否定極性項目の研究史、特に意味論的研究に関するまとめは貴重。
日本語否定文の構造―かき混ぜ文と否定呼応表現 (日本語研究叢書―Frontier series (18))

日本語否定文の構造―かき混ぜ文と否定呼応表現 (日本語研究叢書―Frontier series (18))

D. 片岡喜代子 (2006)『日本語否定文の構造:かき混ぜ文と否定呼応表現』くろしお出版.
日本語の否定極性項目に関する現象、問題点、分析について日本語で読むことができる。否定に関する先行研究の丁寧なまとめが複数含まれており参考になる。
指示と照応と否定

指示と照応と否定

E. 加賀信広 (1997)「第Ⅱ部 数量詞と部分否定」中右実(編)『指示と照応と否定』, 91-178, 研究社出版.
部分否定に関する詳細な考察が豊富な具体例とともに読める。「部分否定」をはっきり取り上げた日本語で読める文献は思ったよりずっと少なかったので貴重だと思われる。否定に関する(作用域の違いとかの)解釈やスケールを用いた議論に慣れるためのトレーニングとしてもいいかもしれない。

追記(2017/02/14)

 宣伝するのを忘れていた。「べき」の節構造については、そもそもどう分析するか(私にとっては)ちょっと悩ましいところがあって、別の現象と絡めて下記で紹介している論文で少し言及しました。
d.hatena.ne.jp

関連エントリ

dlit.hatenablog.com

聖職者であることを要求するのはやめにしませんか(教員に幸あれ)

 こういうことを自身も教員である私が書くのはあまり効果的ではないよなあとは思うのですが(大学教員だから気楽に言えるんだよと思われるリスクもあり)。
 さて、下記の記事、これまでも似たような実体験を耳にしたことはあったので内容に驚くということではないのですが、ちょうど今週授業を持っている教育研究科(国語教育コース)の送別会があって、やはり多くの卒業生が教職に就く(戻る)という話を聞いた直後だったのでいつもより読んで暗い気持ちになりました。
anond.hatelabo.jp
 それで下記の応答なんですが、
anond.hatelabo.jp
体験談・アドバイスとしてはこういうのを書いてくれる人がいるのはありがたいことだと思います。特に、「子どもたちが、日々親や大人たちから同じように罵られ、脅かされていることに気付いた。」という認識を書いてくれたことは素晴らしいですね。ただ、こういう記事を踏まえた上で「でもやっぱり大変なら辞めた方がいい」という考え方が基本になった方がいいんじゃないでしょうか。そして、できれば「やっぱりもう一度チャレンジしたい」となったときにやりやすい環境が整備されないかなあ。
 教員の中にはほんとに「聖職者ってこういうことか」と思いたくなるような人がいて、それは讃えられてよいと思うのですが、全(あるいはほとんどの)教員に聖職者であることを求めるのは、教育、教員全体に対する余計なプレッシャーになるのではないかと感じることがあります。でき(てい)る人を賞賛することも無理してる人の正当化につながる可能性もあるわけで、難しいことだと思いますけどね。
 あとブコメなんかで「大変な人が辞めないと変わっていかない」という反応があったのですが、教育・教員に関しては、劣悪な環境にいる人がばんばん辞めていってもあまり制度自体の根本的な改善にはつながらなそう、あるいは、民間企業等に比べてその進み方が非常にゆっくりになる(のであまりそれを待ってもいられない)のではないかという気がするのですが、教育制度や教育行政に詳しい方、どうなんでしょうか。

こどものスポーツと熱心なおとなたち(親とかコーチとか)

 下記のまとめを読んで、気になるポイントはいくつかあるんですが、こどものスポーツとその親について書いておきたい事例があったのでちょっと便乗。ちなみに、あくまで事例であることに注意して下さい。しかも特に思い出に残っていることですので、極端な事例です。
togetter.com
直接関係しそうなのは下記の発言(ただ元のツイートは現在読めないようです)。

フィギュアなんかコーチよりもママの方が熱心で激しくスパルタでめっちゃ怖いなんて良くある話だから。
フィギュアスケート:大事な試合直前に、数少ない練習場所をコスプレイベントに取られてしまった件(と、その後、誤解が解けるまで) - Togetter

経験したことがある方は色々思い出すことがあるんじゃないかと思います*1。こどものスポーツにおける親の熱心さというか熱狂ぶりは環境や人にもよりますが、時にすごいレベルに達することがあります(もちろんそうでない親もいます)。
 私が関わってきた競技は硬式テニスですが、私自身がプレーヤーだったときは、自分のこどもの対戦相手を応援(とは呼べないような何か)で威嚇したり、ミスに拍手したりする*2親がいたのが印象に残っています。幸い私自身がそういう目にあうことはありませんでしたが…

コーチ時の経験

 ※実話なので意図的に細部をぼかしている箇所があります。
 テニスコーチのアルバイトをしていた時に、非常に印象に残っているできごとが2つあります。
 一つ目は、個人コーチの代行(友人がその日できなくなったのでその代わり)で、小学校低学年ぐらいの子一人を対象にしたレッスンの時の話です。ウォーミングアップから最初の簡単な練習までは非常にいいボールを打っていてうめーなーと思っていたんですが、途中から親が見に来たら、もう見るからに緊張しちゃって、うまく打てなくなっていっちゃったんですね。テニスはある程度ミスはしかたないスポーツだと思うんですが、ミスるたびに気にしすぎてますますダメになっていっちゃう感じ。また、途中からコートの外に呼び出されて練習に関する話を少ししたんですが、あまり技術に関する知識はないようで、でも「ミスが多い」とか言うんですよ。「うまくなってほしい、試合に勝ってほしいならあなたが見に行かないことをおすすめします」って言うかどうかホントに迷いました
 二つ目は、やはりバイトの代行で対象は高校生だったんですが、練習始める前にケガしてるって言うんです。で、ちょっとやってみたらかなりきつそう。やめて休むべきだと思ったんですが、それはできないと。依頼者も「これぐらいのケガで休んでちゃダメだ」みたいな感じ。なので、時間いっぱいその子と話をして状態を確かめつつなんとか練習しているフリをしました。今思えば断って途中で帰った方がよかったのかもしれません。

大人の情熱

 以上紹介したケースは、特にひどかったもので、こういう話が実際にどれぐらいの割合であるのかはわかりませんが、大人に知識や技術がなかったり、優先順位の判断を間違うことによって、「つぶされてしまう」こどもというのは珍しくないのではないかと思います。そこまでいかなくても、そのスポーツや競技から離れて行ってしまう。
 さいきん話題になることが多い部活問題にもつながっていく話なんですが、どんな分野でもこういう問題があると先細りになっちゃう気がします。現状はどうなんでしょうか。
 テニスは団体戦とかもありますが基本的には個人競技なのでこれも想像になりますが、「チーム」がある団体競技はさらに大変なのではないかと思います。あとあまり詳しくないんですが、たとえば芸術系(音楽とか)ではどうでしょう。

*1:そうじゃなくてもときどきテレビでそういう家族を見た事がある方もいるかもしれません。

*2:一応、硬式テニスでは推奨されないことになっています。