「研究者の“奇矯さ”や“(無用なほどの)過激さ”に引かれる(学問上でも、生活上でも)」というのは、院生やプロの研究者であってもある程度あることなのではないかと思う。皆さんの分野ではどうでしょうか。少なくとも僕の知っている研究領域ではそういう感覚の存在を感じることがある。
「クズみたいな人間ほど名文を生む」という誤った信念のもと、“人間のクズ”になる方から着手したアホが、やはりロクな文章も書けぬまま爆散する不幸な事例を知っている。
— 朧 (@OB_RT) September 3, 2014
数学の世界にも同じような(?)問題はあるように思う。「狂っていること信仰」みたいなものが。おそらくシニアの数学者の間ではそれは薄いと思うので、それは高校野球の状況とは違っていそうだけれど、数学好きな子供が「狂っているのかっこいい」とうっかり思ってしまいそうな環境というのはある。
— 松本佳彦 (@ymatz) September 3, 2014
いや、一流であるために「深い意味で狂気を持っていること」はたぶん必要だし、それに「数学に集中した結果として挙動がおかしくなる」というのは起こりがちで必ずしも否定しないけど、別におかしくなることが目的ではないから、っていう。
— 松本佳彦 (@ymatz) September 3, 2014
僕が今までの短い研究人生で感じるのは、そういう一種“奇矯な/過激な”研究者というのは、同時に研究の面でどこか突き抜けたすごさを持っているのではないかということ。つまり、「“奇矯/過激”であってもその世界で生きていけているのは、研究がすごいから」であって、「“奇矯/過激”だからその世界で生きていけている」というような単純な話ではないと思う(中にはそういう人もいるかもしれない)。こういうのも、いわゆる「生存(者)バイアス」の一種なのかなあ。
僕自身も、そういう研究者に憧れる気持ちというのはわかる気がするし、ついつい先輩や先生の言動の真似をしてしまうというのは、無意識にやっちゃうこともあるので気をつけたいところ。「形から入る」というのが良い方に作用することもあるとは思うんですけどね。
ちなみに僕が武闘派なのは(自分では平和主義者だと思うんですけれど)誰かの真似というよりは、元々の性格によるところが大きい。たぶん。