dlitの殴り書き

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媒体、内容、批判すること、批判すべきこと

 補足するかどうか迷ったのですが

ブコメを見て、ちょっと書いておいた方が良いかもと思ったので簡単に。

 僕が上記のエントリで焦点を当てたかったのは、「同じような内容でも、媒体によって批判するかどうかの判断が人によって変わることがある」あるいは、もう少し踏み込むと、「人によって判断が変わっても良いのではないか」ということです。なので、

江戸しぐさを『ムー』が取り上げてくれたら解決(批判する必要がなくなる)

とは全く思いません(ネタで書いた方も多いのかもしれませんが)。もうすでに『ムー』以外のところに影響が出ているからですね。もしそうなったら「これ、『ムー』で肯定的に取り上げられたネタだよ!」と“宣伝”する、といった戦略はあるかもしれませんが。

個人の基準とべき論

 あと、気をつけたいのは、「批判すべき/すべきでない」という話は、もう一歩先の話ではないかということです。
 前のエントリでも「個人の優先順位としては」という条件に触れていると思うのですが、たとえば個人の行動としては

  • 媒体に関わらず言及する
  • むしろ、『ムー』などは批判対象として取り上げる人が少ないのでそちらに積極的に言及する
  • 内容を疑問視する人が多くても、影響力が大きいと考えられるもの(ワイドショーとかファッション誌とか)には言及する

などなど、色々な基準が考えられると思います。専門家かどうかとか、自分の仕事や趣味に関わるかどうかとか、色々な要因があるでしょうね。
 ここから、「社会全体が/専門家が/○○の人が ××を批判すべき/批判するべきでない」という話にするのには、さらに他のこと(リソースとか、優先順位問題とか)を考えなくてはならないのではないでしょうか。
 ただ、個人の行動のレベルにおいてその指針に不干渉であるべき、と言いたいわけでもありません。そのレベルでのアドバイスや批判がありがたいこともあるでしょうし、それらが(複数の)他人の行動に影響を及ぼすことが良い方向に向かうこともあるでしょう。逆もあるかな。

媒体についておまけ

 批判と媒体の関わりについては、けっこう以前から悩んでいるところがあります。たとえば

の内容を書評の形にして論文誌などに投稿したら、という提案は研究者を含め複数の方からいただいたことがあって、自分でもちょっと考えたことがあるのですが、論文誌では書評(論文)の対象にすること自体、ある程度の評価を保証するような側面もあるので、ややこしいところです。
 実は書評出てたりするので、その辺りのことは気にしなくて良いのでは、という話もあるのですけれどね。

ムーがよくて江戸しぐさがいけない理由と批判の方に先に出会ってしまう問題




 確かに現在の江戸しぐさの大きな問題の一つとして公教育に食い込んでいるというのは外せない論点だと思うけど、たとえ公教育に入り込んでなかったとしても、歴史(学)に関わる人たちは「これはいけない」と考えるのではないかな(実際に批判したり行動するかどうかは別としても)。
 『ムー』がこういう問題でそこまで批判の対象にならないのは、いわゆるトンデモ系の媒体として一種の社会的地位を確固たるものにしているからだと思う。卑近な例で考えてみると、たとえば問題のある「日本語○○語起源説」が岩波の『科学』とか『現代思想』とかに載ったら問題だなと思うけど、『ムー』に載ったら、正面切って批判するという気はあまり起きない(もちろんどういうリアクションや影響があるかによる)。
 「○○がダメな理由」と「○○を批判する理由」は、時に重なることもあるけれど別々であってもよい、という点に注意が必要ではないかと感じることがある。
 なので、影響力みたいな観点で考えると、『ムー』に載ることはそれほど問題視しないけど(内容の怪しさで言えば大差ない)テレビのバラエティで紹介されることは批判するという方針もあって良い気がする。個人の優先順位としては、そこの線引きや基準は違っていても良いのではないか。もちろん、何か共通のリソースを使うとか、優先順位を付けなければならない場合は議論して調整すべきだとしても。

補足(追記(2014/09/23))

参考


批判の方に先に出会ってしまう問題

 ついでに江戸しぐさがらみでもう一つ。


これは「○○批判」のような場合によく見られる反応だと思う。こういう場合に、「なんだそれ、と眺めている(笑っている)内に/気付かないうちに広がって、やっかいなことになったものリスト」をさっと出せると良いと思うのだけれど、どなたか作りませんか(丸投げ)。あるいは、もうあるかな。

「江戸しぐさ」や「水からの伝言」は創作としてなら道徳教育の中で使えるか



 確か水からの伝言の問題でも「いい話なんだからフィクションとしてなら道徳教育で用いて良いのでは」という話はあった気がする。
 江戸しぐさ」や「水からの伝言」は「史実」や「科学」であるところが重要なので、フィクションであるとして導入するのは大変というかかなりムリがあるんじゃないかなと思うんだけれど、道徳教育や、あるいは教育一般においてフィクション・事実性をどう取り扱うのかっていう研究はどれぐらいあるのかな(たとえば道徳教育においてそういう「創作」の位置づけはどうなっているのか、とか)。国語教育も関わる問題のような気もするけど、国語だと「作品」としての枠が強いから意外とそういう問題からは自由でいられるのかなと思ったり。調べ学習なんかとも関連して、「事実」をどう扱うかってのは結構重要な問題としてあるんじゃないかと思うんだけれど、どうなんでしょう。

追記(2015/02/20):関連エントリ

 水からの伝言については、何度か批判の記事を書いています。ご参考まで。

「水からの伝言」に言語学の立場から反論する - 思索の海


水からの伝言関連記事目次 - 思索の海