dlitの殴り書き

現在更新していません。もうひとつのブログ(https://dlit.hatenadiary.com/)を見てみてください

被害を受けた土地の人たちはずっと“ふだん”話し会う必要があるのか

 下記のニュースで焦点にしていることが気になった。

ふだん原爆の問題を話し合う機会がどの程度あるかを聞いたところ、広島市では「あまりない」「全くない」と答えた人が3分の2に達し、被爆体験の継承が改めて課題として浮き彫りになりました。
原爆「ふだん話し合わず」広島市で3分の2 NHKニュース

 調査では広島・長崎以外の地域の人にも聞いているので、この記事では広島は象徴的に扱われているということだろうけど、その象徴性が気になるというか。
 故郷の沖縄だとこれに近い話題はやはり沖縄戦ということになるだろうか。確かに他の地域の人たちよりは、ふだんの話の中でも戦争、特に沖縄戦について触れることは多くなるのかもしれない。基地問題とかあって身近だし知識もあるし。
 ただ、こういう記事を読むと、そんなに“ふだん”から話していないといけないというものでもないのでは、と思うことがある。何かあった時に、あるいは何か特別な日に限って話すという選択肢はないのだろうか。しかも、それをNHKみたいなところが調査して、結果から「被爆体験の継承が改めて課題として浮き彫りに」と言ってしまうのは、一種の「呪い」のようにも感じてしまうのだけれども、考えすぎだろうか。
 もちろん、広島の人たちがこの調査結果だけを見て、「被爆体験の継承が危うい」と考える可能性はあるし、不思議な結論・感想ではない。ただやはりそれはまずその土地に暮らす人たちが決めることなのではないかと思う。というか、この向き合うことが求められる時点で、すでに何か背負わされているわけだし。