下記の記事を読んで連想、というか以前から気になっていたことをメモしておく。たぶんこの記事からは話がずれる。
d.hatena.ne.jp
「支援」として「つながり」が大切だというのは、大学でも学生を対象に時々耳にする話。
「私の望む社会の形」が、あるべき子どもの居場所へと投影される
「つながり原理主義」の帰結 - lessorの日記
というのは「私」を「教員」、「子ども」を「学生」に変えても違和感があまりない(「社会」も「大学」に変えた方がいいかな)。
ところで、現在の大学生の「つながり」として機能しているものに、LINEをはじめとしたSNS的な「場」があるのではないかと思う。これは、ケースバイケースかもしれないけど、人によっては物理的な場(所)よりしんどいものになりうるのではないか。なぜなら、いやな「場」には行かないという選択肢がいちおうあるけれど、LINEなんかはどこにいても追いかけてくるから*1。授業でSNSのことばを取り上げたりするので、受講生のSNS事情を聞く機会がけっこうあるのだが、みんななかなか大変そうだ(これは学生に限った話ではないかもしれない)。
場所について下記のようなことをつぶやいたけど、
六花さんのサロン文化のついーと見てて思い出したんだけど、(僕の観測範囲では)大学から「なんのためにあるかよくわからないけどなんとなく人がいられるスペース」が減らされていっているんじゃないかってのが少し気になってる。コモンズとかがその代替になればいいのかもしれないけど
— Takumi TAGAWA (@dlit) 2016, 2月 3
大学から「なんとなく一人でいられる」場や機会をなくしてしまうことに、大学に関わっている人は、自覚的であった方がいいんじゃないかということがここしばらく気になっている。
*1:一方で、LINEをやっていないと重要な情報が回ってこなかったり、という問題もあるようだ。