金谷武洋氏の著作やそこでの主張の受容についてのメモ。そのうちまとめた方がよいかな。
私が氏について書いたものは下記にだいたいまとまっています。
d.hatena.ne.jp
今回は、下記のようなツイートを見つけたので、買って読んでみましたというお話。
今月は群像に『ゾンビ』×『大いなる助走』というべき羽田圭介の衝撃作『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』書評と、連載「新・私小説論」第十回が掲載。今回は一回丸ごと使って金谷武洋『日本語に主語はいらない』のことを書いてるのですが、石原千秋さんはまた「何だこれは」と言ってくれるのかなー
— 佐々木敦 (@sasakiatsushi) 2016年11月8日
先に書いておきますが、私はこの他のシリーズを全く読んでいませんので、文章全体の評価はしませんしできません。
冒頭はこう始まります。
日本語学や文法学を専門とする人にとっては常識に属する話題だろうが、その筋ではよく知られた「主語無用論」や「主語否定論」などと呼ばれる立場がある。その提唱者であるカナダ在住の言語学者、日本語教師の金谷武洋は、著書『日本語に主語はいらない』において、おおよそ次のようなことを述べている。
(佐々木敦 (2016)「新・私小説論 第十回「一人称の発見まで」」『群像』71(12): 236)
三上章にも触れられますが、ほとんど金谷氏の本の内容の紹介です。
気になったのは下記のような箇所。
駆け足で金谷武洋の(そして彼を通して三上章の)「主語無用論」を繙いてきたが、もちろんその主張にはさまざまな疑問や反論が寄せられている。金谷が撃っている敵は「英語セントリズム」すなわち「英語中心主義」だが、結局のところ、それは文法学者たちのアカデミックな世界の諍いでしかないとする反応もあり得るだろう。
(佐々木敦 (2016)「新・私小説論 第十回「一人称の発見まで」」『群像』71(12): 245)
専門的に見て色々問題があるということが「さまざまな疑問や反論が寄せられている」「アカデミックな世界の諍いでしかない」というような表現で片付けられてしまうことが、きっと「受容」されていく(されている)ということなのでしょう*1。
ちなみに、私はこの筆者に問題があるとはまったく考えていません。詳しくは上で紹介した記事群に書いてありますが、金谷氏の(具体的な)問題点に気付くのは日本語研究(史)に詳しくないとかなり難しく、他言語が専門の言語研究者が高く評価するようなことがあっても(残念ですが)驚きはしません。
以前下のように書きましたが、こういう文章には今後も定期的に出会うことになりそうです(ちょっと気をつけているだけでこれなのだから、気合い入れて探せば今でもたくさん見つかるのかも)。
一方、金谷氏の主張は過剰な形での「日本(語)は素晴らしい」系の言説との相性が良いように見える(本人の主張にもそういうニュアンスが入っていることがある)ので、一般的には、これからさらにカジュアルに引かれることは増えても、忘れられていくことはないのではないかというのが個人的な印象である。「知識人」とか他分野の研究者による肯定的な言及も増えていくのではないかな。
金谷武洋氏の言説と今後どう付き合っていこうかなあ(専門的に見ると問題のある本や言説にどう立ち向かうか) - dlitの殴り書き
今後、「三上章の言っていることは金谷氏の本を通してしか知らない」という人が(研究の世界以外にも)増えるのは良いことなのか悪いことなのか。個人的には嫌な感じがしますが。
追記(2016/11/11)
大事なことを書き忘れていました。
自分にとって何か「専門分野」があるみなさん(研究に限りません)、こういう問題にどう対応するのかというのは本当に難しいのですが、気付いたら自分の分野で何か変なものが「受容」されているというのは珍しくないことなんだなという体験を少しでも共有していただければ幸いです。
*1:ちなみに、この筆者自身は「アカデミックな世界の諍いでしかない」と考えるような立場は取っていません。